「共感」という言葉に、どういう印象を持っていますか?
「Aさんに話してみたら、すごく共感してもらえたから、心が楽になった」と言いますね。
こういうふうに共感してもらえると、私たちは楽になったり、嬉しくなります。共感してくれた相手に、好印象を抱くこともあります。
「共感」が良いものだから、なるべく共感的な人になりたいと思う人も、いるでしょう。

もっとも、共感も簡単ではありません。
共感できない、共感しにくい、という体験です。
例えば、価値観がまるで違う人と話していると、なかなか共感しずらい。

似たような体験をしていると、共感しあえるけれど、それがないと、共感なんて本当はできない、と思うときもあるでしょう。
うつ病で休職している人がいます。そして、仕事が楽しくて仕方がなくて、職場に行くのがまったく嫌ではない人がいます。この人は、休職したことはありませ。こういう二人が仕事や職場について話し合ったら、相手の気持ちにまったく共感できない、と感じるかもしれません。

休職している人は、『職場の人間関係で苦しくて休職した自分の気持ちなんて、この人には、体験したことないから、わからなんだろう』と思う。
仕事が楽しいと語る人は、『なぜそこまで職場のことが嫌だと言うのだろう』と怪訝に思うかもしれない。
似たような体験でも、特に、苦しく辛い体験を持っている者同士だと、その苦しみを分かち合えると思うことがあるものです。

それでも、似たような体験をしている者同士でも、その実、どれくらい共感し合えているのかは、存外、難しい。
人は、「休職体験があるか、ないか」という括り方だけで、分けられるものではありません。同じ休職者同士でも、家族歴も人生史も、性別も年齢も、それぞれ違います。
さらに人間性に関わる部分、つまり、性格とかパーソナリティは、それぞれ違ってきます。

こと「休職」という話だけではなく、お互いにコミュニケーションを取ろうという関係になったら、相手の気持ちに共感できない体験が出てくるはずです。

「共感的であろう」という言い方には、共感が意識的にできるものだという暗黙の認識があるみたいです。
「共感的姿勢」や「傾聴」などという言葉には、共感が一種のスキルとして扱われている感じがあります。こういう共感は、意識的な体験としての共感だと言えるでしょう。
共感が意識的に目指されるものになればなるほど、共感は良いもので、一種のコミュニケーションスキルである感じになります。

しかし、共感という体験を、意識的なコミュニケーションスキルという箱から出して、わけもわからない感情の伝染や、自分と相手との境界がなくなってしまうような融合体験としても考えてみたらどうでしょうか。
そうなるとコミュニケーションスキルとは言いにくいでしょう。
共感を一面的に、「良いものだから目指しましょう」とは言いにくくなりませす。
共感の危うい側面が見えてくる。

意識的なコントロールという品行方正な共感ではなく、無意識的で自分でもわからない体験としての共感です。
自分でも気づかないままに、ある人に融合してしまって、自分をなくしまったり。

一心同体のような感情の海に埋没してしまったり。

自分を見失い、自分が乗っ取られてしまうような体験です。

相手が自分の心の中に入ってきて、相手の感情を代理で味わう共感です。

自分を相手の心の中に投げ入れて、自分の感情を相手に味わわせる共感です。

好意や愛などのポジティブな感情もあれば、嫌悪や憎しみのようなネガティブな感情もあります。

共感が無意識であればあるほど、私たちは自分と相手を見失うかもしれません。それでも、そういう無意識的な共感に気づいて、なんでこういう感情に陥っているのかを考えることができるなら、自分自身と相手を、深く知ることができる可能性が出てきます。

コミュニケーションスキルとしての共感を発揮して、日常の社交を気持ちの良いものにしていけたら良いなと思います。

しかし、リワークや心理療法の体験をされる方は、職場や家族、パートナーとの何らかの人間関係にまつわる葛藤や心理的危機を経験されている方が多いのです。

そこでおそらく起きていたことは、自分ではわけのわからない無意識的な共感体験だったのかもしれません。

感情を経験している自分と他人とが、お互いの境界がなくなってしまって、同じような感情の中に入っていく。

共感とは、なんと不思議な体験なのでしょうか。それは不思議だし、素晴らしくもあり、気持ちよくもあり、恐ろしくもあるものです。