最近、わたしが、ふわりと考えていることを書こうと思います。

 京都の紅葉がきれいで、雨が降るとより一層と赤みが強く感じられます。その中で先日まで公開されていた、「琳派展」にいってきました。
 琳派というのは、現在の日本人、外国人がみても新奇性があり、斬新な構図で描かれていたり、草書、行書などあらゆる書式を入り交えて書いている詩がありました。のびのびと人の目を気にせず、自分たちの表現を最大限に挑戦している姿がそこにありました。その表現者たちが「琳派」という文化を創っていました。また、それを良しとする風土がその時代、その時代にあったのだなぁ、と眺めていました。このような新奇性に富んだ人のアイデアを受け入れる文化が今、日本にあるのだろうか。。?

 日本の文化というと、「恥の文化」とおっしゃる学者もいます。

じゃあ「恥の文化」とはなんだろう・・
 海外の人からみると、日本人は、他人の目に常に気を配っており、自己評価=他者評価という考えを持っていると分析されています。だから他人と違う行動、発言を避ける傾向があると言われています。
 実際、生活していると、無意識、意識的にも、他人がどう思うか多かれ少なかれ気にし、絶えずバランスをとり、他人の考えがまるで自分の考えのように思ってしまっていることがあります。つまり、「人様に迷惑をかえているかどうか」の尺度で行動していることによって、「恥の文化」といわれる国民性が形成したんだろうと考えました。

これって悪いことなの??良いことなの??
 じゃあ悪いことなのかというと、そうではありません。白黒どっちかつけたいところですが、良い面と悪い面があります。
 
 「恥」に対し行動するというものは、悪いことではありません。人々を思いやりながら、”個”ではなく、”集団”的力を促進させる面があります。日本は災害の国です。個で行動していたら、人は救えませんし、助かりません。集団で行動することでお互いを助けあってきた文化背景があります。恥の文化は日本社会の原動力とも言えます。
 
悪い面は、どうでしょう。

 自身の所属している集団以外の社会に対して疎かになってしまうことです。そして、最後は、個人の”個”が育ちにくい傾向があることです。
恥の文化は人目をきにする文化であり、体裁を気にしてしまうのです。
 良い所、悪いところそれぞれありますね。

リワークに目をみけてみます。

リワークのメンバーさんは、参加当初自身の意見など言うのにとても勇気が必要です。しかし、メンバーみなさんが一種の集合体です。”個”を集団の中で徐々に表現しながら、自身の内面に向き合っていきます。
このリワークは一つの小さな社会であり、文化です。
琳派のような、個性豊かな人たちが、それぞれの目標は違えど、大きくみると同じで、一種の集合体です。体裁を気にせず、社会のいいとこ、悪いとこをみながら、自身を表現できる場にリワークを利用していただけたらと思います。