3月になると奈良の東大寺ではお水取りが執り行われます。奈良時代から続くこの習わしは、もともと東大寺で執り行われた修二会に全国の神々が招かれた折り、若狭彦神社の遠敷明神(おにうみょうじん)は漁に夢中で時を忘れて遅刻してしまい、そのお詫びとして二月堂の十一面観音にお供えするための水を送る約束をし、二月堂の下に湧き水を引いたことが始まりといいます。

以来ずっと、福井県若狭の遠敷川の鵜の瀬の淵から、お水を流し送りその水が10日かけて奈良の東大寺の井戸に届くとされていて、その香水をくみ上げて観音様にお供えして人々のあらゆる罪を懺悔し、国家の安泰や五穀豊穣を祈る意味があるようです。

1月に大きな震災があった能登半島ですが、今年の「お水送り」も無事に執り行われたようです。被災の具合がどの程度だったのか、うかがい知ることはできませんでしたが、遠い能登の人々の祈りが離れた奈良の地でも汲み取られ、同じように祈られているというのがなんとも悠然としておおらかな話だなと感じます。

なんだか魚を取るのに夢中になって大慌てででかけるけれど、遅れてしまってひたすらなんとか償おうとしている神様の姿はなんだか、人間臭くておかしいなと笑ってしまいます。その不器用な明神の真心を汲み取って観音様に捧げてさしあげる「お水を取る」人たちとの時空を超えたつながりはこの時代だからこその想いのやりとりだなあと、現代にはめずらしい感覚を味わえます。

電話やネット、早急で間違いのない報連相が、安心の大前提になりつつある現在の世の中で、時々想い出したいな・・・と思う感覚だなあと感じます。

完全でない自分を開き直らずに、能登の神様のようにいつも自戒の念を忘れず、遠く離れた自分以外の人たちへの幸せを祈る気持ちを大切にしたいなあと感じました。

お水取りを過ぎ、暖かい春が被災された方々にも早く訪れますように。