コロナ禍は、後戻りできないような変化をもたらしました。
その一つ、リモートワークを話題にしたいと思います。
同僚たちと顔を突き合わせて働くのが当たり前のはずでした。
もっとも今日のテクノロジーは、何も出勤せずとも、ネットワークでさえ繋がることができれば、職場から離れた場所で、会社の仕事を可能にしていたようです。
それは、コロナウィルスが蔓延していなくても、今日のテクノロジーですでに可能なことだった。
ですから、接触を忌避すべきコロナウィルスの出現が、実際はすでに可能だった、ネットワークで繋がるリモートワークという仕事のあり方を、具現化したと言えるのかもしれません。
今日では、多くの職場で、リモートワークが導入されています。
リモートワークを知ってしまったら、それは不可逆なものです。
わざわざ会社に行く必要がないのです。
遅刻しないように起きて準備をして、電車に乗り、あるいは車を運転して、時間とお金と労力をかけて、職場に行かなくても済むのです。
こんな便利な生活を知ってしまったら、後戻りはできません。
これからもリモートワークは、確実に続くでしょう。
コロナ禍の危機において、リモートワークがウイルスの感染を予防します。
リモートワークの利便性。とても楽です。それによって浮く時間と体力があります。仕事以外で、もっと自分の時間を作れるかもしれません。
さらに対人関係の文脈で言えば、人と実際に顔を突き合わせて働くことで、私たちは人間関係に悩み、疲れます。
リモートワークは、そうしたストレスから、私たちを解放してくれるもののように思われました。
しかし、リモートワークが浸透するにつれて、それで失われるものがあることにも、私たちは気づきました。
人間同士の触れ合いが持つ力です。
確かに、顔を突き合わせて働くのは、煩わしい。しかし、だからこそ、作れてきたものがありました。
物理的にお互いが同じ空間で同じ時間をともにすることが、心理的にもどれほど大きな力を持っていたのか。それをコロナ禍によるリモートワークが教えてくれました。
接触することは、危険です。ストレスです。
しかしその接触から、生み出されるものがある。
直接話をする。話を聞く。沈黙を共有する。触れ合う。
それは苦痛で危険なことでもありますが、接触するからこそ経験できる生々しさがあります。
私は、映画を観るのが好きです。最近では、もっぱら配信で観ることが多くなりました。
リモートです。
それであらためて感じるのですが、配信で観る映画は、子どもの頃に映画館で観た映画とは比較にならないくらい、記憶に残りません。
それは、私が年をとったからでしょうか。
そうかもしれません。
しかし、私の加齢を差し引いても、やっぱり実際に映画館に足を運び、映画館で観たという具体的な経験が、私の身体と心に残っているのだと思うのです。
あの人と一緒に映画館に行った日のこと。一人で映画館に足を運んだ日のこと。
映画館やオーディエンスの雰囲気。観た映画についておしゃべりしたこと。一人で心の中で何かを感じながら帰ったときのこと……。
リモートでは経験できない要素がいっぱいあります。そして、この経験こそが、映画作品との接触を、配信で観るときとは比較にならないくらい、生々しいものにしてくれていたのだと思います。
配信、オンライン、つまり、リモートで観る方が、お金もかからないし、簡単にたくさんの種類の映画を観ることができるでしょう。
しかし、それは、本当に大事なことなのだろうか。
自分の経験の中では、部屋の中、パソコンのブラウザで観る映画よりも、子どもの頃に親に連れられて観た映画の方が、大事な人と一緒に観た映画の方が、大事なものとして残っているようです。
映画との出会いでもそうなのですから、ましてや、人との出会いなら。
リモートワークが逆説的に教えてくれたのは、人と人との触れ合いが持つ重みなのかもしれません。
コロナ禍のなか、クリニックの中で患者さんたちと出会うとき、私はそう思います。