梅雨の季節。

じめじめした日は気分も体調も優れず、憂鬱な想いになる季節かもしれません。

ただでさえ雨模様の6月は、祝日もないし、あまり人気がないかもしれませんね。

私も、雨の中で靴が水で染みてしまったり、蒸し蒸しした夜などに、梅雨は苦手だなと思うことがあります。

生命にとっては、雨は恵み。陽の光がそうであるように、雨が降って命は育まれます。

自分が梅雨の好きなところは、どこだろう。そう考えてみると、雨の音でした。雨音。

空から落ちてくる水滴が、地面に、屋根に、草木にぶつかることで、あの何とも心地よいリズミカルな音が生まれます。

自然が奏でる雨音のリズムに耳を傾けていると、不思議と心が落ち着きます。
微かに聴こえてくる淡い雨音が、ぶつかり弾けるような雨音に変わると、雨足が激しくなったことがわかります。落ち着いていた心が、少しざわざわします。豪雨になるのだろうか。家族の帰りは大丈夫だろうか。

雨音が心を落ち着かせてくれることもあれば、悲しみを催させることもあります。あんな失敗をしてしまった。あの人との関係が上手くいっていない。もう会えない人のこと。そんなことが思い出されると、雨が涙みたいに思えます。実際には涙は流れていないけど、代わりに雨が降っているように思えてくる。

心の中で何かが感じられ、気づくと、雨音が止まっています。窓の外を眺めると、雨が上がって、これから日が差すかもしれないようです。

雨音を聴いていると、乾いていた心に水を注いでもらえたような感じがします。

6月の梅雨に、雨音に浸ると、自然の中に生きていることが、とても貴重だと感じます。私たちは、人工物に取り囲まれて生きていて、その恩恵を受け、しかし自然の中に生きていることを忘れがちです。私たちが、自然の一部でもあります。

では、私たちの心の自然とは、何なのだろう。自分の心の自然とは。いろんなものを隠したり、見せないようにしたり、相手に合わせて生きている。生きるために、そういう「人工物」を私たちの心は、必要としてきました。そんな「人工物」に覆われている心にも、自然の姿はあるのだろうか。

私たちが知っている自分の心は、心の自然なのでしょうか。

ありのままの自分の心が、心の自然だとしたら、リワークでも、心理療法でも、「人工物」に取り囲まれた心の中にいる患者さんが、心の自然の中の自分を経験する営みと言えるかもしれません。