その方がリワークにいると、自然とリワーク・ルームの雰囲気が柔らかくなり、穏やかな気持ちになれました。
それは、その方を囲んでのお別れ会にて、メンバーの皆さんから口々に、その方を評して言われたことです。
振り返ってみると、その方は飾らずに、かっこつけずに、素直な気持ちや思いを、プログラムでも話しておられました。
しかし、当のご本人はあまりそういう柔らかくて穏やかな自分について自覚されていなかったということでした。
むしろ、職場にいるときの自分は、それとは逆のようだったと振り返っておられました。
おそらく、その方の柔和な部分や素直な部分は、本来その方に備わっていた部分だったのだと思います。ただ、休職に至るまでに、その方のそういう自然で生き生きとした部分が、いつのまにかこわばり、あたかも失われてしまったかのように見えていたのではないでしょうか。
リワークでの活動とメンバー同士の信頼関係を通じて、その方が持っていた素直な部分や穏やかな部分がまた動き始め、それが周りのメンバーの皆さんにも伝わっていたのだと思います。
この話しを聞いていて、人には「いろいろな自分」がいるのだな、と改めて思いました。
このことは、今週のリワークプログラムの「自己分析」でも感じたことでした。
自己分析では毎回テーマを設定し、メンバー全員でフリートークをして、その話し合いの中から、自分自身に対する何らかの気づきが生まれることを目的としています。
今回の「自己分析」のテーマは、『休職を巡って自分自身を考える』というものでした。
いくつもの印象的な話しがメンバーの皆さんから話されたのですが、「休職という経験をして、自分の中に、いろんな自分がいることに気づいた」という内容が、何人かのメンバーさんから共通した発見として出てきたのです。
「悪い自分」と「良い自分」。
「攻撃的な自分」と「優しい自分」。
「大人の自分」と「子供の自分」。
「かっこつける自分」と「かっこ悪い自分」。
………。
そして、こうしたそれぞれの自分がお互いに反目し合うのではなく、お互いに手を結びあえたとき、自然な気持ちになれるのだ、ということが話されていました。
「いろいろな自分」が、自分の心に住んでいることを自分が許せたとき、全体感を感じられるということなのだと、この話を聞いていて思いました。
あるメンバーさんは、「休職するまでは、自分の弱い部分を認めることができなかった。そういう自分を認めることは辛かったのだ」という内容を自己分析で話されました。だから、カッコつけなくてはいけなかったのだ、と。
でも、それもどこかでは辛いとその方は感じていたのでしょう。「そういう自分だけでは辛いよ」という、もう一人の自分からのメッセージが、休職前には送信されていたのかもしれません。
その方は今回の休職を通じて、そうした自分の「よろい」が少しずつ緩み、自分の中には、「大人の自分」で「かっこつけの自分」だけでなく、「弱い自分」もいれば、「子供のように頼りない自分」もいることを発見し、そういう自分を許すことができるようになったようでした。
「強い自分」・「できる自分」だけが心を支配したとき、人は他人に対して冷酷で、冷たい勝利者になっているのかもしれません。
自分の中にある「強い自分」・「できる自分」だけを人が頼りにするようになったとき、でも、その強さとは、偽物なのかもしれません。一見強いように見えても、本当はとても「もろい」ものなのかもしれません。
本当は自分の中に住んでいた「弱い自分」・「できない自分」に目を閉ざさず、切り捨てず、彼らを拾い上げられた時、その人は生き生きとした存在になるのかもしれません。「弱い自分」に出会って、それが心に住むことを受け容れている人は、そのことそのものが、その方の魅力を形づくっていくように思います。
そして、それこそが、本当の強さになるように思えます。
今日卒業されていかれた方から発せられていた魅力とは、そういうものだったのだと思うのです。